天女姫伝説

疱瘡神社/広島県広島市

清盛と常磐御前の愛娘

平治の乱の終結の際に一瞬だけ登場した常磐御前(ときわごぜん)という女性を覚えていますか。
13世紀前半に成立したとされる「平治物語」によると、常磐御前は第76代近衛天皇の中宮藤原呈子(ふじわらのていし・九条院)の召使いで、源義朝の側室でした。今若、乙若、牛若を産みますが、義朝は平治の乱で敗れ、処刑されてしまいます。
常磐御前は3人の子とともに逃げのびました。しかし母親が京の都で捕えられたことを知り、清盛の前に姿を見せるのです。

常磐御前は母親の助命と3人の子が処刑されるのを見るのはつらいので先に自らを殺してほしいと清盛に懇願します。
清盛は常磐御前の美貌に魅せられ、結局許してしまいました。

そして常磐御前は清盛の妾になるのです。

常磐御前(画・歌川国芳)

やがて常磐御前は清盛の子を産みます。女の子で天女姫(てんにょひめ)と呼ばれ、母の美貌を受け継いでそれはそれは可愛らしかったようです。

清盛はあまり女性と長続きする運がないのか、常磐御前とは別れてしまいます。そういや妓王や仏御前とも長くは続かなかったですね。
別れた常磐御前は中流貴族の一条長成(いちじょうながなり)に迎えられ、男子、能成(よしなり)と女子ひとりを産んでいます。

ちなみに「平家物語」によると清盛と常磐御前の間には廊御方(ろうのおんかた)という女子も生まれています。彼女は左大臣藤原兼雅(ふじわらのかねまさ)の妾になり、和琴と書の名手として名を馳せました。

天女姫の死

さて、天女姫に話を戻します。
かわいいかわいい天女姫ですが、どうも身体が弱いのが難点でした。挙句に天然痘に罹患してしまいます。今でこそその名を聞かなくなった病気ですが当時天然痘にかかることはそのまま死を意味していました。

清盛は必死になって看病しますが、好転の兆しは見られません。これは神頼みしかないと天女姫を、京の都からはるばる厳島神社まで船で運びます。治承3年(1179年)の2月の話でした。

厳島神社で清盛は丸二日間、天女姫の快癒を死に物狂いで祈念します。祈祷も終わり、これで大丈夫、と船を出して帰路に就こうとしたところ容体が急変。天女姫は亡くなってしまいます。わずか14歳でした。

清盛が天女姫の亡骸を埋葬する場所を神に乞うたところ「七里ほど東に赤い旗があるからそこへ」とお告げを受け、現地へ行ってみるとなるほど確かに赤い旗がありました。
清盛はその地に姫を埋葬し、そばにお堂を建立。

  • 疱瘡神社
  • 疱瘡神社
  • 疱瘡(ほうそう)とは天然痘のこと。清盛によってお堂に本尊の阿弥陀如来像と十二単(じゅうにひとえ)を着た天女姫の木像が安置されましたが、今は現存していません

しかし、このあたりは海に面した半島になっているため、山からキツネやオオカミが出てきて墓やお堂を荒らすのではないかと清盛は案じました。
そこで半島の付け根のところを開削して、海の水を流し、お堂の周りを島にしてしまえばいいと思いつきます。
相変わらず発想が突飛です。

上の地図で青く着色されている部分が当時海だったであろうと推測される部分です。半島の付け根あたりのくびれ部分を開削して堀にしました。
国中から人員が集められ、開削作業に従事します。

  • 本川井戸
  • 本川井戸
  • 開削工事に携わる人員の喉の渇きを潤すために清盛が掘らせた井戸が堀越公園のそばに残っています。飲用はできませんが、今でも地元の有志によって大切に守られています

地名の堀越は堀の開削が命名の由来になっており、同様に近辺に残る赤田の地名も平家の旗印である赤旗が変化したもの。お堂に奉っていた阿弥陀如来も阿弥陀ヶ丘の名で天女姫伝説のゆかりとして残っています。

堀の完成に際して清盛が詠んだ和歌が残っています。清盛の和歌はわずかふたつしか残されていません。あとひとつの和歌は平治の乱の際に詠んだもの。

吾が心はやみの夜道にあらねども 子故にまよい掘るこのほりを

子を思う清盛の気持ちがそのまま吐露された歌で、
「私の心は闇夜の道をさまようことなく真っ直ぐだけれど、天女姫のために道に迷い、この堀を掘っています」という意味です。

堀が完成すると清盛は京へ戻りますが、天女姫の侍女はそのまま残り、姫の魂を守り続けたのだそうです。疱瘡神社の敷地の一角には侍女の墓も残っています。

参考地図:向洋半島ほこり隊様制作「当時の向灘半島」



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  • 疱瘡神社
  • 住所 広島県広島市南区堀越町3-22-7
  • 電話 082-250-8935(広島市南区市民部区政振興課)
  • 開門時間 境内自由
  • 拝観料 無料
  • 交通 JR山陽本線向洋駅 徒歩16分

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  • 広島菜
  • 広島菜は長野県の野沢菜、九州の高菜とともに日本三大漬菜と呼ばれ、広島県の名産でもあります。アブラナ科の野菜で見た目は白菜のよう。安芸国藩主が参勤交代の際に、同行した観音村(広島市西区観音町)の村人が京都本願寺へ参詣し、種子を持ち帰ったのがそのおこりで、しばらくは「京菜」と呼ばれていたそう。明治になって品種改良が進み、現在では広島県民に愛される特産になりました。ぜひシャキッとした歯切れと豊潤な風味を味わってみて。


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