初代ポートアイランドは清盛が造った?!

兵庫厳島神社/兵庫県神戸市

清盛、後白河上皇とラブラブ

仁安4年(1169年)、清盛52歳の時です。清盛と仲良くしていた後白河上皇が高野山に御幸、その帰路で福原(神戸)にある清盛の別荘に立ち寄りました。その折に千僧供養が挙行されます。文字通り、千人の僧を招いて食事を提供し法会を営むことで、相当な経済的支出を要するのですが、清盛はこれ以降何度も千僧供養を営みます。上皇のためならそれくらいの出費はなんてこともありません。

同年、後白河上皇は出家して法皇となりました。翌年、清盛は後白河法皇と一緒に奈良の東大寺で仲良く受戒します。これは、鳥羽法皇と藤原忠実(ふじわらのただざね)が同時に受戒したのを真似したもので、いわばラブラブ演出ですね。
しかも、清盛の娘である徳子を法皇の子として高倉天皇に入内させたりもします。もうなんでもありです。

その合間に、後白河法皇は清盛の引きあわせにより、福原で宋人と面会します。日宋貿易は盛んに行われていましたが、宋人は博多に住むことはあっても、都の近くの福原にまで来ることはいままでありませんでした。まして、皇族が外国人と会うなんてことは許されなかった時代です。
右大臣の九条兼実(くじょうかねざね)にも「我が朝、延喜以来未曾有の事なり。天魔の所為(しょい)か。(我朝延喜以来未曾有事也、天魔之所為歟)」と大批判を受けます。

清盛、人工島建設に着手する

貴族たちの批判を買ってでも、後白河法皇を宋人に引き逢わせたのには理由がありました。宋船を博多までではなく、福原まで呼び寄せたかったためです。それほどまでに日宋貿易は清盛にとって有益でした。そのためには法皇の力が必要だったのと、そしてなにより後白河法皇も乗り気だったのです。

法皇を味方につけてしまえばこっちのもの、とばかりに清盛は福原の港の大改修を思い立ちます。
港は大輪田の泊と呼ばれていて、港の端に和田岬(下図の黄緑色のピン。青色着色部分は当時おそらく海であったであろうと推測されます)があるおかげでそちらからの風による波浪は大したことがなかったものの、東側には波を遮るものがなく、波浪でよく船が難破していたのです。

だったら人工の島を造って、波の影響を受けない港にすればいい!と、博多で鍛えたその手腕で、清盛は人工島造りに取りかかるのでした。

  • 勝福寺
  • 勝福寺
  • 永延2年(988年)藤原英雄丸(ふじわらのひでおまる)が勅命により、高取山麓に庵を建て、鹿松峠(かのししまつとうげ)に出没していた鬼を仏教の力で退散。そののちに開基した寺とされています

工事はかなり大掛かりなもので、多くの人手を必要とします。なかでも神戸市須磨区の山沿いにある勝福寺は寺の衆徒達が大いに協力をし、その礼に清盛は築島供養式の際の幡や密教法具などを寄進しました。

  • 密教法具
  • 密教法具
  • 清盛から寄進されたもので、香炉の一種である火舎(かしゃ)は銅鋳製鍍金。蓋にはハート形に似た透かしがあり、脚には獣をあしらい、鬼面をつけています

こうして工事をどんどん進めて行ったのですが、ある日のことです。天気がどんどん悪くなり、しまいには暴風雨に。しかもその暴風雨、一向に収まる気配がありません。
これはどうしたことかと調べてみると、島を造成するために海を埋め立てる土砂をなんと神の居る祠のある丘から運び出していたことが分かったのです。丘を荒らしたと思い込んだ神様がゴキゲン斜めになって暴風雨を呼んだらしい……

そりゃいかん!ということで、新たな場所に祠を移したところ、嵐は止んで工事は無事に再開できたのだとか。

  • 七宮神社
  • 七宮神社
  • 遷座した場所はJR神戸線神戸駅から徒歩10分ほどの場所。高速道路の高架と国道の交差点の脇にあります

不思議な話はまだあるのです。


またも暴風雨…

とある夜のことです。寝ている清盛の枕元に子供の姿が現れて「海の中に霊仏があるので探せ」と告げるのです。これはお告げだと感じた清盛は、大輪田の泊に網を入れさせます。
するとどうしたことでしょう。引き上げた網には金色に輝く薬師尊が掛かっていたのです。

湊山温泉

金色に光る像から、金光寺と名づけられたこの寺(別名:兵庫薬師)の薬師如来の胎内には、その像が納められているそうだとのこと。不思議なことって続くものですね。

その後、工事は着々と進み、まもなく竣功…というところで、またもやってきました暴風雨。しかも2発。深い海に土砂を埋め立て埋め立て、あと少しというところであっさり潮に流されてしまったのです。

困った清盛は陰陽博士に解決策を占ってもらいます。答えは「30人の人柱を供えよ」というとんでもないもの。
ところが清盛のほうがとんでもなくて、神戸市中央区生田(いくた)に関所を設け、旅人をむやみやたらにひっ捕らえ始めました。もちろん人柱にするためです。

さすがにこれはひどいと思ったのでしょう。清盛の小姓(こしょう。傍仕えのこと)であった松王丸(まつおうまる)という少年が人柱の身代わりを申し出ます。最初こそ拒んだ清盛でしたが、結局松王丸の主張を受け入れ、30人分の身代わりを彼一人で背負うことになったのです。

  • 松王丸供養塔
  • 松王丸供養塔
  • 清盛が松王丸の菩提を弔うために寺を建て、念仏の道場としたといわれる来迎寺。神戸市営地下鉄海岸線中央市場前駅から北に徒歩3分のところにあります

実は来迎寺の境内にはもうひとつ清盛のゆかりがあります。
妓王(ぎおう)妓女(ぎじょ)の五輪塔です。平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種である白拍子(しらびょうし)を舞う踊り子さんで、清盛の寵愛を受けた人物です。このふたりの詳しい話についてはまた別のページで後述することにします。

  • 妓王・妓女の五輪塔
  • 妓王・妓女の五輪塔
  • 白拍子とは、遊女や子供が今様や朗詠を歌いながら舞ったものです。白い直垂、水干、立烏帽子、白鞘巻の刀という男装で歌や舞を披露していました。現在のタカラヅカみたいなものでしょうか

経ヶ島と厳島神社

人柱のおかげかそれ以降は作業は順調に進み、承安3年(1173年)に人工島経ヶ島(きょうがしま)が竣工します。ただ、工事自体は清盛の死後まで続くのですが。

まだまだ続く工事の安全とこの土地に住まう住民の安泰を願った清盛は、平氏一族が信奉する厳島神社をこの地にも根付かせようと考えました。
かつて熊野を京の都に勧請、造営したように、福原に厳島神社の市杵嶋姫大神(いちきしまひめのおおかみ)を勧請し7箇所に祀りました。これらを「兵庫津七弁天」と言います。

時代が移り変わり、7つあった弁天のうち、「佐比江弁天」「西宮内弁天」は消滅してしまい、「渦輪弁天」もまた「外弁天」に合祀されてしまい、4つしか残っていません。そこで新たに3つ増やし、名前も清盛七弁天と変化して今に至ります。

和田神社

新たに増えたうちのひとつが、和田神社です。「あんぜん弁天」を名乗っています。あとは先述した来迎寺と、済鱗寺、恵林寺が新たに加わって8箇所になっています。

かつての兵庫津弁財天時代からそのまま残っているのが、「真野弁天(現在は『おんがく弁天』)」の真光寺、「夢野弁天(現在は『れんあい弁天』)」の氷室神社。
そして勧請元の広島の厳島神社の名前そのまんまである「花隈弁天(現在は『けんこう弁天』)の花隈厳島神社です。

  • 花隈厳島神社
  • 花隈厳島神社
  • 通称「浜の弁天」。最初は宇治川下流の左岸にあったためで、明治初期に神戸港の建設により中央区栄町通あたりに移転。 しかし昭和22年(1947年)には神戸中央郵便局が出来ることとなり、現在の中央区花隈に再度移転しました

スゴイのが、さらに厳島神社があることです。「外弁天(現在は『おしゃれ弁天』)の兵庫厳島神社があります。兵庫区永沢町、神戸高速鉄道新開地駅の近くです。兵庫津の域外にあったので外弁天と呼ばれていました。
境内には針塚、淡嶋神社があります。 針塚は2月8日に針供養の神事が行われ、淡嶋神社には病気平癒のご利益が。

兵庫厳島神社

ダメ押しで言うなれば、神戸市内にはあと9か所の厳島神社があります。ほとんどは清盛とは関係がないので割愛しますが、1箇所だけゆかりの神社が存在します。
その紹介はまた別の機会を設けましょう。

画像引用:神戸市立博物館様(http://www.city.kobe.lg.jp/culture/
culture/institution/museum/main.html)
神戸観光壁紙写真集様(http://kobe-mari.maxs.jp/)
神戸商工会議所様(http://www.kiyomori.org/)
5thLuna様(http://www.flickr.com/photos/5thluna/)



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  • 兵庫厳島神社
  • 住所 兵庫県神戸市兵庫区永沢町4-4-21
  • 電話 -
  • 開門時間 24時間
  • 拝観料 無料
  • 交通 神戸高速鉄道新開地駅 徒歩2分


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