鹿ケ谷の陰謀、勃発!

俊寛僧都忠誠之碑/京都府京都市

藤原成親のイライラ

安元2年(1176年)に建春門院が亡くなると、清盛の輝きもじわじわ鈍り始めます。大抵の場合、問題というモノは周囲から勝手にやってくるものですが、清盛の場合もそうでした。

後白河法皇の側近に藤原成親(ふじわらのなりちか)という貴族がいました。彼の妹が藤原信頼の妻だったこともあり、信頼つながりで後白河上皇の側近に加わったのです。
後白河法皇から「あさましき程の寵愛」を受けていた信頼と同様、成親もまた「殊になのめならず御寵ありける」状態だったようで。

その成親ですが、左大将藤原師長(ふじわらのもろなが)が辞職した後の左大将の空席を虎視眈々と狙っていました。
しかし左大将には平重盛がなり、さらに右大将には清盛の三男である宗盛が昇格。平家が独占してしまうのです。
実は重盛の妻、経子(けいし)は成親の妹なだけに、平家とも仲良くしていこうとしている矢先からこんな仕打ちをうけるとは!となんだか余計にムカムカします。

  • 平重盛
  • 平重盛
  • 清盛の長男。保元の乱、平治の乱では清盛を助け、若き武将として功績を残し、その後は順調に出世していました。清盛出家後は後継者となりますが……

さて成親の兄弟、西光(さいこう)が登場します。西光は養子に来た身なので成親と血縁はありませんが、やはり成親と同じく後白河法皇の側近です。
その西光には藤原師高(ふじわらのもろたか)と師経(もろつね)という名のふたりの息子がいました。

師高は加賀守に就任し、代理で師経が現地に入ります。
ところが師経は現地の寺院と揉め事を起こします。僧たちが湯を沸かして入浴していたのを邪魔して追い出すという低レベルな嫌がらせにはじまり、抵抗されると挙句に寺を放火してしまったのです。

焼かれた寺側は怒り心頭で本山である比叡山延暦寺に通報。
延暦寺は当然激昂し、師経と加賀守である師高の処分を求めて強訴(ごうそ)を行います。(白山事件

比叡山と対立する後白河法皇

これに対して後白河法皇はなんとか延暦寺側をなだめ、師高を配流、師経は禁獄することで一度は解決しますが、師高や師経の父である西光が法皇に泣きついてきました。
西光は「強訴の指揮をしたのは延暦寺の明雲(みょううん)である」と進言し、法皇に明雲の逮捕を命じさせます。

あれよあれよという間に逮捕された明雲は源頼政(みなもとのよりまさ)の兵に護衛されて伊豆へ配流が決定。
しかし伊豆への道中で、延暦寺から来た2,000人もの群衆に囲まれて明雲を奪還されちゃいます。頼政呆然……

  • 源頼政
  • 源頼政
  • 晩年は官位への不満を愚痴る和歌をよく詠み、長期間正四位であった頼政が「のぼるべきたよりなき身は木の下に 椎(四位)をひろひて世をわたるかな」 と詠んだところ、清盛は頼政が正四位だったことを知り、従三位に昇進させたという笑い話のようなエピソードもあります

これにカンカンになった後白河法皇は重盛、宗盛を呼びつけ、延暦寺を攻撃するよう命令します。法皇がとんでもないことを言いだしたと重盛たちは福原の清盛を訪ね、ことのあらましを報告。
清盛は後白河法皇に会うために上洛します。

清盛はなんとか法皇を思いとどまらせようと説得しますが、法皇の意志は固く、結局延暦寺攻撃を清盛に命じてしまいます。息子たちのためとはいえツイてない清盛。

しかし延暦寺は平安京を守るために設置された経緯がある寺院です。仏門へ入った清盛にとって、法皇の命令とはいえ寺院を攻撃するというのは、仏への罪にプラスして、国家安寧を司る寺院を攻撃する罪を作ることに。
なんとか回避する方法はないものかと清盛は思案します。

多田行綱の密告の内容

延暦寺攻撃の直前のことです。
清盛の西八条邸に多田行綱(ただゆきつな)という武将がやって来て清盛に話をしていきました。その話とは……

 系図

京の都の東に位置する大文字山は五山の送り火で有名ですが、その山麓に鹿ヶ谷(ししがたに)と呼ばれるエリアがあります。
そこにあった俊寛(しゅんかん)という僧侶の山荘で、密談が行われていたというのです。密談の内容は、なんと……平家打倒計画!!
しかもその場には後白河法皇がいたのです! 法皇だけではありません。平家に不満タラタラの藤原成親や延暦寺のために息子を配流された西光も同席していました。

酒を囲んで密談は続きますが、信西の息子である浄憲(じょうけん、静賢)は計画に反対します。
そこですくっと立ち上がったのが成親。立ち上がった拍子に酒器の瓶子(へいし)を倒してしまいます。
法皇が「どうした?」と尋ねれば、成親は「瓶子(=平氏)を倒しました」とダジャレをかまし、法皇大ウケ

他の者が「瓶子(酒)が多くて酔ったなあ」と言ったので、俊寛が「それなら、どうしてくれようか」と返せば、西光は「首をとるまでだ」と瓶子の首を折る始末。
あまりの悪ノリに浄憲はなんだか怖くなってしまいます。

  • 俊寛僧都忠誠之碑
  • 俊寛僧都忠誠之碑
  • 鹿ヶ谷の山荘の跡地とされる場所には碑が立っています。碑は西垣精之助という人物が昭和10年に立てたもので、彼の夢に出てきた場所が山荘の場所だと信じて立てたもの。かなりの山奥にあるため、実際の山荘位置の信憑性には欠けています

ちなみに俊寛がこの密談に加担している理由は「女性」です。
成親が松の前というツンとした美人と、鶴の前というブサかわいい系を俊寛にはべらせたところ、俊寛、鶴の前にあっさり陥落。女児を産ませちゃいます。これで成親に頭が上がらなくなった俊寛、ズルズルと計画にも引きずり込まれたわけです。

清盛の逆襲

多田行綱からこのような鹿ヶ谷の陰謀の密告を受けた清盛は、しめたとばかりに先手を打ちました。西光を拷問にかけ自供を得ると殺害、息子の師高も討ちとり、師経も斬首としました。

さらに清盛は成親も拘束し、備前国に配流します。成親の妹が重盛の妻であることから、重盛は成親に衣類を送るなどの援助をし、成親の助命を画策しました。
しかしわずか1カ月後、成親は配流先の備前国で処刑されます。
毒を飲まされますが失敗し、菱形に尖った武器の上に高所から突き落とされて絶命したとも、食料を与えられず餓死したとも言われています。

成親の墓は岡山県岡山市北区吉備津の森の中にひっそりと残っています。

藤原成親遺跡

しかしながら自らの妻の兄が配流され、救いを求めたのに処刑されてしまったことで面目を失った重盛。あっさり左大将を辞任してしまいました。その結果、宗盛が清盛の後継者の地位に繰り上がります。
また清盛の弟の頼盛(よりもり)も妻と俊寛が兄弟であることから、立場がなくなってしまいました。

成親の息子である成経(なりつね)についても、清盛は厳しく対処しようとします。
ところが成経の妻はまたもや清盛の弟の教盛の娘。しかも妊娠中
教盛は清盛に寛大な処置を懇願するものの、清盛は断罪する方針を譲らなかったため、教盛は出家すると騒ぎ出しました。
そこまでするのなら……と、成経の身柄を教盛に預けることに清盛も同意します。

最終的な処分が下り、成経は俊寛とともに薩摩国鬼界ヶ島(きかいがしま)に配流になりました。

後白河法皇に無茶な延暦寺攻撃を命じられていた清盛でしたが、「鹿ヶ谷の陰謀」は延暦寺攻撃を中止するに足る充分な理由付けになり、しかも藤原成親や西光といった後白河法皇の側近をも排除できました。まさに一石二鳥の出来事。
偶然なのか、それとも全て清盛が仕組んだ罠だったのか、今となっては誰にもわかりません。

どちらにせよ、清盛と後白河法皇の溝はもう埋めることはできないところまで来てしまっていました。



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  • 俊寛僧都忠誠之碑
  • 住所 京都府京都市左京区鹿ヶ谷大黒谷町
  • 電話 ー
  • 開門時間 24時間
  • 拝観料 ー
  • 交通 京都市営地下鉄烏丸線丸太町駅1番出口から 市バス15分錦林車庫前下車 徒歩30分
    京阪電鉄鴨東線神宮丸太町駅1番出口から 市バス10分錦林車庫前下車徒歩30分


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