以仁王が起こした反乱

宇治橋/京都府宇治市

以仁王の憂鬱

治承4年(1180年)2月のことです。清盛は高倉天皇に譲位を迫ります。結果、高倉天皇の子で満1歳4か月の言仁(ときひと)親王が即位しました。安徳天皇(あんとく)です。 安徳天皇は清盛の孫でもあります。これにて清盛は天皇の外祖父としてさらなる権力を振るうはずでした。

この状況に大いに不満を持つ人物がいました。その名は以仁王(もちひとおう)。以仁王は後白河法皇の第三皇子でしたが、皇族の子女に親王および内親王の地位を与える親王宣下(しんのうせんげ)も受けられませんでした。それでも莫大な所領を持つ八条院(鳥羽法皇の娘)の猶子(養子)となって後ろ盾を作り、いつかは天皇に即位したいと野望を抱いていたのです。

しかし、安徳天皇が即位したことでその野望も望み薄となり、治承三年の政変を受けて所領を没収されます。なんで俺がこんな目に…と悔し涙を流したことでしょう。

系図

寺社勢力と源頼政の反発

上皇となった高倉上皇。慣例で譲位後最初の参詣は石清水八幡宮、賀茂社、春日社、日吉社のどれかに詣でるのが決まりでした。しかし自身が信奉する厳島神社への参詣を勧める清盛。

これに対して宗教的影響力の低下を危惧する延暦寺、園城寺、興福寺は反発します。後白河、高倉両院を拉致して平家討伐の命令を朝廷に要求する計画を謀りました。
しかし何よりびっくりしたのが後白河法皇本人で、慌てた法皇は宗盛に寺社の計画を密告。法皇の身柄は鳥羽殿から洛中へ移されました。

法皇の密告により寺社側の計画は実行されることはありませんでしたが、それだけに寺社側は平家への反発をくすぶらせます。

一方、源頼政(よりまさ)は清盛によって目を掛けられて従三位に昇進するなど、平家とは仲良くつきあっていたはずでしたが、頼政の息子仲綱(なかつな)と清盛の息子宗盛の間でトラブルが起きます。

  • 平宗盛
  • 平宗盛
  • 清盛の三男。重盛の亡き後は平家の後継者として采配を振るいますが、清盛と後白河法皇の対立の板ばさみになり、ストレスを抱え込んでしまいます

そのトラブルというのがまた低レベルで…
仲綱が飼っていた「木の下(このした)」という馬を宗盛が欲しがったものの、仲綱はハイハイ、そーですかと受け流していました。しかし、宗盛があまりにしつこく欲しがるものだから父の頼政の進言もあり譲ったところ、宗盛はすぐに譲らなかったことにムカついたのか馬に仲綱と命名し、「仲綱」の焼き印を入れて虐待したのだとか…ほんとかいな。

この話を聞いた頼政は平家への反感を抱きます。
これで、平家へ反目する以仁王、頼政、寺社勢力が繋がることになるのです。

以仁王の挙兵

その年の春、以仁王と頼政は共謀して全国の源氏と寺社に対して令旨(りょうじ)を下します。令旨とは皇太子の命令を伝える書面のこと。

内容は「清盛や宗盛は横暴な振る舞いが多すぎる。後白河法皇を幽閉して関白基房を流罪にして皇室を軽んじている。これら平氏を討伐する。この挙兵に同調しないなら清盛の味方と判断して処罰する。こちらに味方して戦功があれば、即位後恩賞を与える」というもの。
以仁王は自らを「最勝親王」と称していましたが、以仁王は皇太子どころか親王ですらなく、ただの王に過ぎないため、いわゆる身分詐称。この令旨も皇太子でもなんでもない人物が出すのなら令旨ではなく、本来は御教書(みぎょうしょ)と称するはずなのです。
現代なら詔書偽造等罪でしょっぴかれます

この令旨を伝達する使者には、熊野に隠れ住んでいた源行家(ゆきいえ)を抜擢。行家は山伏の姿で諸国を廻ります。その令旨は源頼朝にも伝わりました。

しかし計画はポロリと漏れるもの。行家が住んでいた熊野が原因でした。令旨によって熊野の勢力は平家派と反平家派に分かれてしまい、平家派が平氏に密告したのです。

  • 以仁王
  • 以仁王
  • 令旨の密告を受けた平氏は後白河法皇から院宣を引き出し、以仁王を臣籍降下し、源姓を与えて「源以光」と改名させました(後白河源氏)。その上で土佐国への配流を決定します

計画がバレてしまっては仕方ない、と以仁王は女装して屋敷を脱出、園城寺に逃げ込みます。平家に反発していた園城寺はこれを受け入れ、以仁王の身柄を寄越せと迫ってきた平家の軍勢を拒絶。

仏罰を恐れた武士は園城寺をおいそれと攻めるわけにはいかず、とはいえこのままともいかず、周りからじわじわ攻めて行こうと延暦寺の切り崩しに入ります。
危機感を持った以仁王は頼政とともに、奈良の興福寺へ移動しようと園城寺を脱出しました。平氏もこれを察知し、後を追います。

しかし、夜の移動で疲れてしまい、何度も馬から落っこちる有様だった以仁王を見かねて、頼政軍は途中の宇治の平等院で一泊することに。

宇治橋

翌朝、宇治川に架かる宇治橋で、頼政の軍は追いついた平家軍と宇治川を挟んでにらみ合いになります。頼政が橋板を落としていたため、平家軍は橋を渡ることができず、双方、矢で応戦。

しかし矢では埒が明かないと、急流の宇治川に馬で入り川を渡る平家軍。とうとう渡りきってしまい、そのまま進攻してきました。
平等院まで後退した頼政は、なんとか以仁王を逃がしたものの、敗戦は明らかで、子の仲綱は自害し、頼政も切腹してしまうのです。

以仁王もまた逃げ切れるわけもなく、平家軍の追手の放った矢が刺さり死亡します。

首謀者の以仁王の死により、これにて閉幕と見えましたが、そうはいかないのが歴史の常。
以仁王は実は生きていて、東国へ逃げのびたという噂が駆け巡ります。そして次なる展開に続いて行くのです。



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  • 宇治橋
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  • 電話 0774-22-3141(宇治市商工観光課)
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