源平合戦編 倶利伽羅峠の惨敗

倶利伽羅県定公園/富山県小矢部市

般若野の戦い

寿永2年(1183年)4月の燧ヶ城の戦いで勝利を治めた平家軍。 平維盛(これもり)を総大将とする追討軍はさらに北上を計画します。
その目的は木曽から勢力を拡げ、今や越後まで手中に納めた木曽義仲を倒すこと。
月が改まって5月。越後への道中にある親不知近辺で義仲軍を待ちうけようと、維盛は部下の平盛俊(もりとし)を先遣隊として派遣しました。盛俊は5,000人の兵を伴って越前から越中へと進軍していくのですが…

盛俊軍の動きはしっかり義仲の耳に入っていました。義仲もまた側近の今井兼平(いまいかねひら)の軍勢を西へ向けて派兵。御服山(ごふくやま)に陣を張ります。御服山は現在の富山市呉羽山(くれはやま)のあたり。下図の黄緑色のピンのあたりがおおよその位置になります。

対する平家軍。加賀から越中に入りますが、富山の御服山に今井兼平の兵が陣取っていることを察知すると、これ以上迂闊に進むのはマズいと判断しました。そこで般若野(はんにゃの)に陣を置いて、ここで夜を明かすことに。般若野は現在の砺波市と高岡市の境近辺で、下図の青ピンの辺りです。

ふたつの陣営の距離はわずか15km。しかしこの距離を“まだ15kmも離れている”と安心してしまった盛俊軍の読みは甘いと言わざるを得ません。
今井兼平軍が夜襲をかけてきたのです。

夜明けから寝床を襲われてガタガタになった盛俊軍は、必死で抵抗しますが敵わず、撤退。
おまけに越後から木曽義仲の本隊まで合流してきたので、盛俊軍に勝ち目はなくなりました。

このとき、義仲が大勢の兵の喉の渇きを潤すために地面に向かって矢を射ると、そこから水が湧きだしたという言い伝えがあります。
今でも水はこんこんと湧いており、弓の清水(ゆみのしょうず)との名がつけられています。

弓の清水

倶利伽羅峠の戦い

先遣隊が破れてしまった平家軍ですが、総大将の平維盛はなんと10万もの兵を抱え、さらに隊を2つに分けて本隊の7万を加賀と越中の国境にある倶利伽羅峠(くりからとうげ)の陣に待機させていました。下図の赤ピンのあたりになります。

かたや西へ兵を進める義仲軍。正面からぶつかると勝ち目はなさそうです。
まずは戦勝祈願だと、義仲が埴生護国八幡宮(はにゅうごこくはちまんぐう)に参拝したところ、白い鳩が現れ、義仲は勝利を確信するのでした。(上図黄色ピン)

埴生護国八幡宮

義仲軍と平家軍は戦闘を開始しますが、さほど本格的な戦にはなりません。三々五々の闘いが軽く展開される程度でそのまま日が暮れてしまいました。しかしこれこそが、義仲の戦力はこの程度かと平家に油断させるための戦法だったのです。

夜、すっかり油断した平家軍は鎧を外して、ぐうぐうと就寝。
そこに響き渡る法螺貝の音。
なんだなんだ?と目を覚まして戸惑う平家軍に向かって、突如牛の大群が怒涛のごとく襲ってきたのです。それもただの牛ではありません。角の部分には松明がくくりつけられていました。(火牛の計

火牛の計

真っ暗な闇の中、轟音とともに無数の火の玉が襲ってくるのですから、度肝を抜かれた平家軍の兵は何がなんだか分からず恐怖に逃げまどいますが、そこには義仲の軍勢が先回りしていました。
逃げ場を失った平家軍は、南にある崖にどんどんと身を投げてしまいます。無数の兵士が奈落の底で命を落としたため、その崖は地獄谷と呼ばれるようになりました。

こうして義仲軍は7万もの平家軍に完全勝利を収めたのです。火牛の計に関しては中国の故事を脚色したものだという説もありますが、いずれにせよ平家軍は完膚無きまでに潰されてしまったのです。

源平倶利伽羅合戦図屏風

画像引用:高岡市様 (http://www.city.takaoka.toyama.jp/)
社団法人富山県観光連盟様
(http://www.info-toyama.com/tlibrary/photo.php)
津幡町様(http://www.town.tsubata.ishikawa.jp/)



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  • 倶利伽羅県定公園
  • 住所 富山県小矢部市埴生
  • 電話 0766-30-2266(小矢部市観光協会)
  • 開門時間 24時間
  • 拝観料 無料
  • 交通 あいの風とやま鉄道線石動駅から車で約15分


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