源平合戦編 逆落し!一ノ谷の戦い

須磨寺/兵庫県神戸市

維盛の離脱

かつて富士川の戦いであらぬ負け方をして、燧ヶ城の戦いでは平氏軍を勝利に導いたものの、 倶利伽羅峠の戦いにおいて再び惨敗を期した清盛の孫で、重盛の嫡子である維盛。平家の都落ちの際は妻子を都に残していました。

戦を重ねつつ漂流するような生活に心は荒み、都に残した妻子のことも気がかりで仕方ありません。いっそ呼び寄せようかと考えますが、それもよろしくないだろうと思い直しました。そんなこんなで心悩ませているうちに病にかかり、屋島に引きこもってしまいます。

一方、その他の平氏軍は清盛が築いた旧都・福原に兵を固め、来るべき源氏軍の攻撃に備えていました。
寿永3年(1184年)2月4日、清盛の命日。
この日は福原で清盛の法要が営まれていたため、源氏もさすがにこんな日に攻め入ることはしまいと情けを掛けます。翌日5日は西へ行くことが不吉だとされる日だったので、とりやめ。6日もまた道虚日(どうこにち)と陰陽道で呼ばれる外出を忌む日なので、延期。
なんだかんだで7日に攻め入ることに決めました。当時はなにかと吉凶に左右されたのです。

しかし4日はこれまた兵を進めるのには吉日でした。そこで、進軍だけはしておこうと兵を二手に分けて着々と進めます。
義経軍は吉凶よりも先手必勝とばかりに5日には三草山の戦いにて勝利を治め、福原の裏手、六甲山まで兵を迫らせていました。

一ノ谷の戦い

2月6日、平氏たちのもとへ後白河法皇から使いがやってきます。それは休戦を命じるもので、源平の講和を呼び掛ける内容でした。
しかし、これこそ後白河法皇の策略だったのです。講和を呼び掛けて安心させておいて、一気に源氏に攻め込ませるという計略でした。平氏は法皇の言葉をまるまる信じたわけではありませんでしたが、それでも平氏への心理的な影響はあったでしょう。

義経は福原の北側からまわりこみ、鵯越(ひよどりごえ)で鹿ケ谷の陰謀以降に源氏方に寝返った多田行綱らに本隊を任せて、彼らには福原の本拠である夢野口へ向かわせます(上地図黄色ピン)。

義経はわずか70騎で兵を西へ進め、山の道なき道を進みます。その伴をしたのが、かの有名な武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)です。

武蔵坊弁慶

弁慶は近辺の山に詳しいというひとりの老人を探してきます。老人いわく「この先は900mの深さの谷や、450mの岩場があり、馬で通ることはできません」と。
しかし義経は「鹿はそこを通るのか?」と問い返すのです。鹿なら通れますと返答するや、義経は「鹿が通れるなら馬だって通れる。お前が道案内しろ」と無茶を要求

年老いた身なので…と断った老人でしたが、義経は「ならば息子に道案内させよう」と無理を押し通します。
ところがこの息子、義経の無茶な要求にきっちり応え、鷲尾義久(わしおよしひさ)と義経の名の一文字を賜って改名するほどに、彼の右腕として終始仕え続けたのでした。

義久の道案内にて、ようやく一ノ谷(いちのたに)に辿りついた義経たち(上地図水色ピン)。しかしここもまたとんでもない断崖絶壁でした。
崖の下には平氏が陣を構えていましたが、平氏の注意は東西の平地に向いており、まさか崖の上から襲ってこようとは思わなかったらしく、警備が手薄だったのです。

逆落し

義経は崖の上から馬を落としてみよと命じます。転ぶ馬も、脚を折って死ぬ馬もありましたが、無事に降り切った馬もあったので、やってできぬことではないとばかりに、自ら崖を下りていきます。
怖気づく者もいましたが、相模国の豪族三浦氏の一族である佐原義連(さわらよしつら)が「三浦では鳥を追うのですら、こんな場所を通るのでなんてこともない!」と先陣を切り、義経の後を追って下りて行くと後人も雪崩打つように続き、突撃のどよめきが響き渡りました。

源平合戦図屏風「一ノ谷」

怒涛のごとく響く雄たけびに、大軍が思わぬ方角から攻めてきたと錯覚した平氏軍は大きく動揺し、ろくろく戦うまでもなく勝敗が決まってしまいます。混乱に乗じた源氏軍は火を放ち、平氏は海へ逃げるしかありませんでした。

戦闘は一ノ谷だけでなく、夢野口や生田口(上地図紫色ピン)でも発生します。そのどれもが源氏軍の優勢で進み、平氏軍は総崩れになります。

そんな中、武蔵国熊谷郷(埼玉県熊谷市)の武将・熊谷直実(くまがいなおざね)は海岸沿いで敵を発見しました。逃げようとしていた騎乗の若武者を呼び止めた直美は一騎打ちを挑みます。組み合ったふたり、直美は馬から若武者を落とし、首を取ろうとして顔を見れば、自分の息子ほどの年齢の美青年でした。

源平の庭

直実が名を尋ねても答えようとしません。「名乗ることはない、首実検すれば分かる」との返事に、直美はぐっと来たようでこの若武者を逃がそうかと考えます。
それでもすぐ後ろに源氏軍が迫ってきており、どうせ追手にすぐ捕まって殺されるのならば我が手で、と涙を流しながら首をはねたのでした。
その若武者の名は清盛の弟・経盛の子の敦盛
一ノ谷の近くにある須磨寺(すまでら)には、その際の情景を模した「源平の庭」が整備されています。左の武将が敦盛で、右が直美です。

  • 平敦盛首塚
  • 平敦盛首塚
  • 須磨寺の境内にある敦盛の首を弔った首塚。同じく境内には敦盛の首を洗ったとされる「首洗池」やそのそばには義経が腰かけたとされる「義経の腰掛け松」や「弁慶の鐘」などもあります

また、一ノ谷の須磨浦公園にも源平合戦の碑などが点在しており、敦盛の身体を弔った敦盛塚もここにあります。室町時代末期に建てられたという供養塔は3m以上の大きさです。

敦盛塚

合戦の後は

この一ノ谷の戦いでは数多くの平家の面々が戦死し、清盛の子である重衡(しげひら)は捕虜として捕えられました。
後白河法皇は捕虜になった重衡と三種の神器を交換するよう求めますが、重衡の兄の宗盛(むねもり)は完全拒絶。
それもそのはず。法皇が出してきた講和と、実際の源氏軍の突然の攻撃は矛盾するもので、平氏を陥れる陰謀だと法皇に対し不審を述べ立てています。

一ノ谷の戦いでの平家の戦死者と系図

一方、一ノ谷の戦いに参加せずに屋島に籠っていた維盛は、ひそかに屋島を抜けだし、船で阿波(徳島県)から紀伊(和歌山県)へ渡ります。そこから都へ進み、妻子に会おうと思いますが、今や平氏は追われる身。都にのこにこ出かけて行くことは叶わず、やむなく高野山へ詣でるのでした。
そこで維盛はある男に再会するのです。

画像引用:Bakkai様(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%
82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Benkei_statue.jpg)
KENPEI様(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%
82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Sumadera2.jpg)
Andee様(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%
E3%82%A4%E3%83%AB:Atsumori.JPG)
公益財団法人神戸市公園緑化協会様
(http://www.kobe-park.or.jp/contents/?p=98)



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  • 須磨寺
  • 住所 兵庫県神戸市須磨区須磨寺町4-6-8
  • 電話 078-731-0416
  • 開門時間 8時半~17時
  • 拝観料 無料
  • 交通 山陽電鉄本線須磨寺駅 徒歩6分


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