源平合戦編 追いつめられる平家

藤戸寺/岡山県倉敷市

維盛の死

屋島から逃れて高野山へ辿りついた維盛。そこで出会った人物とは斉藤時頼でした。時頼は横笛との別れの後、高野山に籠り仏道修行に励んでいたのです。しかし、すっかり聖となった時頼は維盛が見知っていた時頼の姿とは似ても似つかないものでした。30歳にも満たないはずなのに、やせ衰えて袈裟には香が染みついており、尊く威厳のある僧になっていたのです。

維盛はこれまでの経緯を時頼に語り、かくなる上は出家して命を断ってしまいたいが、最後に熊野詣がしたいとこぼします。
翌日、時頼の手で維盛の出家の儀が行われ、山伏の姿となった一行は熊野を目指しました。

  • 平維盛
  • 平維盛
  • 清盛の孫で、重盛の嫡男。後白河法皇の50歳の祝賀にて、烏帽子に桜の枝と梅の枝を挿して「青海波」を舞ったことから桜梅少将とも呼ばれ、「源氏物語」の中で青海波を舞った光源氏と対比されるほどの美貌の持ち主だったそうです

維盛たちは無事に熊野に到着し、熊野本宮大社や熊野速玉大社を詣で、そして熊野那智大社にやって来ます。
那智に籠る僧侶の中には維盛を知る者もおり、青海波を舞って光り輝いていたころの姿を見たことがある者は、すっかり変わってしまった維盛の容貌に盛者必衰の無常を感じ入るのでした。

熊野詣の宿願を果たした維盛と時頼たちは、浜辺から小舟を漕ぎ出して沖へ。山成島という小島に着くと維盛は松の木に名を彫り、再度舟で海に出ていきます。時頼が往生を説いた後、維盛は念仏を100度唱えて最後に「南無」と発して入水しました。
遺体は浮かんでくることもなく、時頼は涙に袖を濡らしながら高野へ、お伴をしていた者は屋島の資盛に訃報を報せに向かったのでした。

山成島

なお、維盛は入水せず隠れ落ちて生き延びたという説も全国のあちこちに残っています。なかには沖縄に渡ったというものまであるのが驚きですね。

藤戸の戦い

一ノ谷の戦いののち西走した平氏は屋島で体力を温存します。その間にも伊勢や伊賀(三重県)で平家の都落ちに同行しなかった残党が戦闘を起こしたりもしましたが(三日平氏の乱)、源氏軍に鎮圧されています。

元暦元年(1184年)9月、源氏は粟津の戦いで義仲を討った源範頼を総大将とした軍勢を西へ向かわせました。迎え撃つ平氏軍は500隻の船団で屋島を出発、児島(岡山県倉敷市)へ進みます。

そして12月。地図の赤ピンのあたりに陣を構えた源氏軍。平氏軍がうごめく場所はそこからわずか500mほどの至近距離ですが、その間には海が隔たっていました。
現在は干拓が進んで完全な陸続きになっていますが、当時はこのあたりまで海岸線が来ていたのです。

陸移動してきたため舟を持たない源氏軍はなすすべもなく、ただ平氏軍を睨むしかありません。挙句には平氏が小舟で漕ぎ出してきて扇を掲げ「悔しかったらここまでおいで」と子供のような挑発をする始末。

そこで一計を案じたのが宇治川の戦いで先陣を切った佐々木高綱です。地元の海に詳しい男をどこからか連れてきて、この海を渡る方法はないかと尋ねると、男は浅瀬になっている場所があるのでそこを歩けばいいと答えます。
ならば試しに行ってみようじゃないかと、高綱は男と二人で陣を抜けだして海に入りました。男の言うとおりに進めば確かに非常に浅い場所ばかりで、深い場所はごくわずか。

すると高綱、情報を掴んだからにはもうこの男には用はない、生かしておいてはこのことを誰かに洩らすかもしれないと考え、あっさり刺し殺してしまうのです。
「宇治川の先陣争い」で高綱が見せた他人を騙す知恵はここでもしっかり発揮されました。

翌日、同じように平氏が挑発してきます。待ってましたとばかりに出てきた高綱は、馬に跨ったまま海にザブザブ入って行きます。
なんだありゃ、気が狂ったのか?と思った範頼は部下に命じて高綱を止めようとしますが、高綱は制止を振り切り海を渡り続けました。

結局海を渡り切ってしまった高綱。高綱の行為の真意をようやく知った範頼も号令を発し、3万もの源氏軍が一斉に海を進みます。
驚いた平氏軍は弓矢で対抗しますが多勢に無勢で屋島へ退却を余儀なくされました。

この報告を聞いた頼朝は感心し、川を馬で渡る例は多いが海を渡ったというのは珍しいと、ここ児島を高綱に与えました。

藤戸寺

のちに高綱は戦で荒れ果ててしまったこの地の寺、藤戸寺を修繕し、浅瀬を教えてくれた男と合戦の犠牲者の霊を慰めるための法要を行っています。

  • 笹無山
  • 笹無山
  • 一方、浅瀬を教えて殺された男の母は、佐々木(ささき)という名を憎むあまり、笹(ささ)まで憎くなり山の笹を全部引っこ抜いてしまいました。それゆえ笹無山と呼ばれますが、今では築山程度の広さしか残っていません

葦屋浦の戦い

藤戸の戦いで平氏を下した源氏軍でしたが、窮地に陥っていました。食糧が底を尽きそうだったのです。船もなければ食べ物もない状態ながら、なんとか西へ西へと進み、長門(山口県)まで到着しました。元暦2年(1185年)1月のことです。

しかし、この先に待ち構えるは関門海峡。今では橋もトンネルも架かっていますが、当時にそんなものがあるはずもなく、進軍はぴたりと停止。
さらに平氏軍が第2の本拠としていた彦島(ひこしま、山口県下関市、下地図黄色ピン)が海峡にあり、清盛の四男の平知盛(たいらのとももり)が守りを固めていたので範頼は手も足も出ません。

それでも援軍があるもので、豊後(大分県)からは船が、周防(山口県)からは米が贈られ、ようやく源氏軍は息を吹き返しました。
2月1日、筑前国蘆屋浦(福岡県芦屋町近辺、下地図紫色ピン)にて両軍の合戦が始まります。蘆屋浦の戦い(あしやうらのたたかい)です。

平氏の攻撃から始まった戦闘でしたが、終わってみればあっさりしたもので、源氏軍が勝利。
しかし範頼が率いる源氏軍の食糧難などの事態を重く見た義経は、義経が不在になることで治安が悪化するのを恐れた後白河法皇たちが止めるのも聞かずに、範頼を加勢すべく京の都から西へ向けて兵を挙げました。
そして義経は平氏の本拠地となっている屋島を目指すのです。

画像引用:波止の釣り様
(http://kkss.at.webry.info/201101/article_13.html)
社団法人 岡山県観光連盟様(http://www.okayama-kanko.jp/)
倉敷市観光情報発信協議会様
(http://www.kurashiki-tabi.jp/feature/1692/)



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  • 藤戸寺
  • 住所 岡山県倉敷市藤戸町藤戸57
  • 電話 086-428-1129
  • 開門時間 -
  • 拝観料 無料
  • 交通 JR瀬戸大橋線植松駅 徒歩15分


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