源平合戦編 扇を射抜け!屋島の戦い

屋島寺/香川県高松市

逆櫓論争

元暦2年(1185年)2月、京を出発して摂津国渡邊津(大阪府大阪市福島区)までやってきた義経の軍勢。その地において、ある論争が発生します。
それは、海上での戦に不慣れな源氏軍が少しでも有利に動けるように、逆櫓(さかろ)をつけたらどうかという梶原景時(かじわらかげとき)の進言に対して、義経が拒絶したというもの。
景時は宇治川の戦いで佐々木高綱と先陣を争った梶原景季の父です。

当時の小舟には当然モーターなどついているわけないので、人力で櫓をこいで動かします。櫓は舟の後方についていて、櫓をこげば前進します。
しかしそれだけでは海上で急に方向転換して後ろに進む必要があるときに手間取るのです。
そこで舟の前方にも櫓を設置しておけば、不測の事態の際に前方の櫓をこぐとすぐ後退できるので便利…というのが景時の提案でした。

義経は「縁起でもない。不利になれば退却するのは戦の常だが、それを最初から織り込んではダメだ。つけたければ逆櫓でも逃げ櫓でもつければいいが、私はそんなのまっぴらゴメン」とばかりに退けるのです。
景時はそれでも攻めと引きの双方が肝要だと述べますが、義経は「戦は正面突破で勝つのが気持ちいいのだ」と相入れません。

あげくに海が荒れているのに関わらず、義経は船頭たちを脅して出航させます。出航した船はわずか5艘。あとの者たちはこんなに荒れた海は無理だと波が落ち着くのを待って出航を見送りました。

義経と景時のこのいさかいは逆櫓論争と呼ばれ、その場所(大阪市福島区福島)に松の老木があったことから逆櫓の松(さかろのまつ)と名付けられましたが、現在、松の木は枯れてしまい碑だけが残っています。

逆櫓の松

屋島の戦い

荒れる海の中出発した義経の船はあれよあれよという間に四国へ。着いた場所は阿波国勝浦(徳島県小松島市)でした。

ここにも平氏軍の兵がいました。悟られぬよう近づいた義経たちはあっさりと制圧しその軍の大将であった男にこの場所の名を尋ねました。勝浦という名前に縁起の良さを感じた義経はこれは幸先が良いとばかりに、その男を案内役に平家の本拠地である屋島を陸路で目指します。
下地図の水色ピンが勝浦のおおよその位置、赤ピンが屋島です。

義経が男から聞きだしたところによると、屋島の平家の陣営は源氏側についた伊予(愛媛県)の豪族・河野通信(こうのみちのぶ)を征伐するために兵が出払っているのでわずか1,000騎しかいないとのこと。
さらに屋島は島なれども、海峡は浅瀬で、潮が引けば馬の腹までしか水が来ないとの情報まで得ます。

これはチャンスと、屋島に到着した源氏軍は民家に火を放ち、大軍の襲来に見せかけて攻め込むのでした。
火の手を遠くに見た平氏軍はこれはまずいと舟に乗り込み、沖に出ます。浜には源氏軍。敵はてっきり海から来ると思っていたので焦るばかりの平家にはわずか80騎ほどの軍勢も大勢に見えたようで、矢で応戦すれども敵いません。

屋島

さらに源氏軍は内裏に火を放ちます。悔しくもふと冷静になった平家はようやく源氏軍の数の少なさに気が付きました。こんな少ない兵に負けるわけにはいかぬと矢をガンガン放ち、一時は源氏軍が劣勢に陥ります。

時刻は夕暮れ。日が暮れると戦にならないので、そろそろ休戦かと思われたころ、沖から小舟が陸に近付いてきました。舟には美女が立っています。「なんだありゃ?」そう思うのも無理もありません。小舟は陸から80mほどの場所で留まりました。美女は船板に立てた長い棒の先に赤地に黄金色の円を描いた扇を据え付けます。そして源氏軍に向かって手招きをするのでした。

この扇を矢で射抜けるか?という平家からの挑戦状であると理解した義経は、受けて立とうじゃないかとばかり、我が軍に弓の名手はいないかと尋ねます。
それならばと推挙されたのが下野国(栃木県)の武士・那須与一(なすのよいち)でした。

空飛ぶ鳥を射って3羽のうち2羽は仕留めるという弓の名手とはいえ、衆目に晒され失敗は許されない状況。馬に跨った与一は海の中へ分け入ります。それでも70mは扇の的まで離れているでしょうか。風も吹き波は高く小舟も揺れるため的も定まりませんが、一瞬風が弱まった隙に与一は矢を放ちます。

弓を構える那須与一

一瞬ののち、矢は見事に射抜き、扇が宙に舞いました。見事な腕前に平氏は感嘆し、源氏はどよめきます。
これを見ていた平氏軍の兵のひとり、興が乗ったのでしょう、舟の上で舞い始めました。
するとなんということか、「あれも射よ」と命令が下され、与一は矢を放って踊る兵を射殺してしまうのです。

源氏軍はやんややんやと喜びますが、平氏軍は怒り心頭。そりゃそうですよね。その後は乱戦となりました。
その戦闘中に起きた弓流しというエピソード。
義経が海に弓を誤って落してしまいます。周囲が「どんなに高価な弓であっても命の危険を賭けてまで拾うのはおよしください」と止めるにもかかわらず、義経は馬を打つムチを使って弓を拾い上げました。

義経は「弓が惜しくて拾い上げたのではない。自分の弓が、2人や3人で引くような張りの強い弓ならば、わざと落として平家に拾わせてもいい。しかし、こんな張りの弱い弓を敵に拾われて、これが源氏の大将の弓かと失笑されては悔しいではないか」と答え、皆は感心したといいます。

結局、そのまま夜になったので一時休戦。
翌朝、平氏軍は志度(香川県さぬき市)に進みますが源氏もそれを追います。平氏軍は1,000騎、対する源氏軍は80騎。戦力差は明確だと平氏軍は源氏軍を攻め立てようとしました…が…、そこへ源氏の援軍が登場したのです。

こうなると平氏軍は逃げるしかありません。勝敗は決しました。
ちなみに、義経と逆櫓論争をした梶原景時の部隊が屋島に現れたのは、平氏軍が退却したあとでした。これにより景時は六日の菖蒲と揶揄されてしまいます。六日の菖蒲とは、五月五日の端午の節句に間に合わないという意味。この経験は景時にとって屈辱だったようで、のちのちまで尾を引くことになります。

屋島寺

この戦があった屋島には、那須与一ゆかりの「源氏の白旗」「源氏の勝臼」などを所蔵している屋島寺があります。天平勝宝のころ鑑真和上によって開創されたとされる古刹で、四国八十八ヶ所霊場の第84番札所にもなっています。

画像引用:Inoue-hiro様
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%
82%A4%E3%83%AB:SakaronoMatsu-ato01.jpg)
香川県観光協会様(http://www.my-kagawa.jp/photo/)



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  • 屋島寺
  • 住所 香川県高松市屋島東町1808
  • 電話 087-841-9418
  • 開門時間 境内自由、宝物館は9時~16時半受付
  • 拝観料 大人500円、小中学生300円
  • 交通 JR高徳線屋島駅からシャトルバス20分 屋島山上下車 徒歩3分


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