源平合戦編 源平合戦後の平家

寂光院/京都府京都市

平重衡の最期

一ノ谷の戦いで捕虜として捕えられた清盛の五男である重衡(しげひら)は、頼朝の本拠である鎌倉に拘留されていました。重衡の南都焼討に対する怒り冷めやらぬ南都衆徒の強い要求もあり、重衡は奈良へ連行されていきます。

その道中、重衡一行は日野(京都市伏見区)に立ち寄りました。日野には彼の妻が滞在していたのです。妻の名は大納言佐局(だいなごんのすけのつぼね・藤原輔子)。壇ノ浦の戦いで三種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)を投棄しようとした女性で、源氏軍に捕えられたのち、この地に戻されていました。

束の間の再会を喜ぶふたりでしたが、すぐに別れの時が迫ります。重衡は出家して髪を剃ってその髪を形見にできればと考えますが、そんな時間もありません。やむなく額に垂れた髪を噛みちぎって形見とし、着ていた服も狩衣に着替えて古い服を形見にしました。

「せきかねて涙のかかるから衣後の形見に脱ぎぞ替えぬる」重衡。「ぬぎかふる衣も今は何かせむ今日を限りの形見と思へば」大納言佐局。

なまじっか顔を合わせてしまうと、今生の別れの辛さは筆舌に尽くしがたいものがあります。去りゆく重衡の姿に大納言佐局は泣き叫ぶものの、もうどうにもなりません。ただただ地面に崩れ落ちるしかありませんでした。

奈良に到着した重衡は木津(きづ・京都府木津川市)で斬首され、その首は般若寺(はんにゃじ・奈良県奈良市の社寺)の門前に晒されました。その後、首と胴体は日野の大納言佐局のもとに届けられ、火葬。骨は高野山へ送り、日野には墓を立て、大納言佐局は出家してしまうのです。

頼朝と義経の断絶

壇ノ浦の戦いで捕虜になった平家一門は義経によって京へ連行されました。その捕虜のうち、二位尼の弟の時忠(ときただ)は「平氏にあらずんば人にあらず」のセリフを放った人物。妙な悪知恵が働いたのか、義経に取り入ってなんと我が娘を嫁がせてしまいます。これが義経の首を絞める結果を招く引き金になるとも知らず…。

そして関東でも義経に不利に働く動きがありました。後白河法皇が義経の武勲を賞して義経配下の御家人を任官したことに頼朝がイライラ。
おまけに逆櫓論争で義経と言い合った梶原景時(かじわらかげとき)が、ここぞとばかりに義経の悪口を書き連ねた手紙を頼朝に送ります。そしてトドメに平家の娘を娶ったことも知れてしまい、頼朝激昂です。

そのころ捕虜たちに処分が下ります。時忠は流罪。しかし義経は時忠の配流を実行せず京に留め置いていました。それもまた頼朝の逆鱗に触れ、即時の配流実施を命じます。観念した時忠はのちに自ら能登国(石川県)へ下って行くのです。

吾妻鏡

同じく処分が決定した清盛の三男・宗盛(むねもり)とその子の清宗(きよむね)は、義経が率いて鎌倉へ連行しました。しかし頼朝は義経の鎌倉入りを許しません。宗盛と清宗のみが鎌倉入りし、義経は直訴の手紙(腰越状・こしごえじょう)まで書いたにもかかわらず、足止めを食らったまま再度宗盛親子を連れて京へ戻るしかありませんでした。

腰越状は鎌倉時代に成立した歴史書吾妻鏡(あずまかがみ)に詳しく記述されていますが、情に切々と訴える義経の願いは打ち砕かれ、不仲は決定的なものとなります。
京への帰路、宗盛と清宗は近江国(滋賀県)で斬首されました。また清宗の弟である能宗(よしむね)も京で処刑されてしまいます。

義経の最期

頼朝は義経を追討すべく御家人を京へ派遣。対する義経も後白河法皇に頼朝追討の院宣を出させます。しかし義経に味方する兵は少なく、頼朝軍の兵が上洛する前に義経は負けを悟り、京を脱出。
入れ替わりで頼朝軍が京に姿を現すや否や、後白河法皇は義経追討の院宣を出す朝令暮改ぶりを露わにしてしまいます。

さて、船で西へ向かった義経でしたが荒天で座礁してしまったため、やむをえず陸路で吉野(奈良県吉野郡)へ逃れ、さらに東北地方へと逃げのびて行きます。彼を迎え入れたのが奥州藤原氏第3代当主の藤原秀衡(ふじわらのひでひら・下図絵)でした。

藤原秀衡

鎌倉の頼朝とは一線を画していた秀衡でしたが、日増しに強まる頼朝の圧力に加えて義経を匿ったことで、完全に頼朝と敵対することになります。
しかし義経が奥州入りして9か月後、秀衡は病死。さらに子の藤原泰衡(ふじわらのやすひら)は頼朝の圧力に屈し、大軍で義経のいる館に攻め入ったのです。もはやこれまでと察した義経は応戦せず、31歳の若さで自害しました。

建礼門院の出家

清盛の兄弟でただひとり生き残っていたのが頼盛(よりもり)です。 頼盛は源平合戦に参加していません。平家の都落ちの際、京に捨て置かれた存在なのです。
後白河法皇や八条院など朝廷に太いパイプがあったことが幸いして頼盛はその後、頼朝と急速に接近しました。京の情勢や内部事情を頼朝が欲しがっていたためです。

のちに壇ノ浦の合戦で平家が全滅すると、頼盛は頼朝に出家を願い出ます。その後は表舞台から遠ざかる生活を送り、文治2年(1186年)に死去しました。

また、重盛の子の忠房(ただふさ)は屋島の戦いののちに、そっと戦線を離脱。一旦紀伊(和歌山県)に身を隠し、壇ノ浦の戦いののちも源氏軍と3カ月に渡る籠城戦を交わします。
ところが頼朝の「投降すれば命は助ける」という甘言にまんまと騙され、最後は斬られてしまうのでした。

壇ノ浦で身を投げたものの救助された建礼門院(けんれいもんいん・徳子・清盛の娘、安徳天皇の母)は、罪に問われることはなく、京で暮らし始めます。
文治元年(1185年)5月には出家しますが、全てを失った彼女にはお布施になるものもありません。唯一持っていた我が子・安徳天皇の形見である着衣を泣く泣く布施にして仏門へ入りました。

寂光院

しばらくしてから建礼門院は京の北東・大原(おおはら)にある寂光院(じゃっこういん)へ移ります。

清盛の娘として生まれ、皇后となり、栄華を極めたその人生からすれば、寂光院の庵での生活はあまりにも寂しいものでした。人の気配しない山奥、訪ねてくるのは鹿ばかりのありさまだと言います。

年が明けて文治2年(1186年)4月、後白河法皇が寂光院をお忍びで訪ねました。法皇と対面した建礼門院は落ちぶれた我が身を晒す恥ずかしさに泣き震えつつも会談し、壇ノ浦で全てを失って京へ戻る途中で入水したはずの二位尼に出会った不思議な話をします。

寂光院

建礼門院が「ここはどこ」と尋ねると、二位尼は「竜宮城です」と答えました。「竜宮城に苦はないのですか」と重ねて尋ねれば「竜宮経に書かれています」と。

その不思議な体験ゆえに建礼門院は出家し、ここで経を読み、安徳天皇や一族の菩提を弔っているのでした。
話を聞いた後白河法皇は「きっと六道(迷える者が輪廻する6種の迷いがある世界)を見たのだろう」と答え、会談は終わります。
建礼門院はその後も寂光院で隠遁生活を送りました。

壇ノ浦の戦い以降の平家の状況系図

清盛の誕生からその栄華、ひいては平家の滅亡。
長きに渡ってつまびらかに語りましたが、
それを何よりも端的にかつ的確に表現したのが誰もが知る平家物語の序文でしょう。

祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。娑羅(しやら)雙樹の花の色、盛者(じやうしや)必衰のことはりをあらはす。おごれる人も久しからず、只春の夜(よ)の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

画像引用:京都デザイン様(http://kyoto-design.jp/)、ハネイヌ(あか)様



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  • 寂光院
  • 住所 京都府京都市左京区大原草生町676
  • 電話 075-744-3341
  • 開門時間 9時~17時、
    12月~2月 ~16時半
  • 拝観料 大人600円、中学生350円、小学生以下100円
  • 交通 阪急京都線河原町駅から京都バス1時間 大原下車徒歩10分


    平清盛ゆかりの地を訪ねる 完結


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