俊寛の絶望

俊寛堂/鹿児島県三島村

絶望の鬼界ヶ島へ

安元3年(1177年)に起きた鹿ヶ谷の陰謀を受けて、陰謀に加担していた関係者が次々に罰せられました。藤原成親と西光は処刑され、成親の子、成経(なりつね)と北面の武士として後白河法皇に仕えていた平康頼(たいらのやすより)、そして僧侶の俊寛の3人は鬼界ヶ島に配流が決定します。

3人はまず鹿児島へ連行されます。鹿児島市から鬼界ヶ島へ舟で渡りました。

  • 俊寛之碑
  • 俊寛之碑
  • 鹿児島市の繁華街、中町の一角に俊寛らが鬼界ヶ島へ向かって出航した地であることを示す碑が立っています。今でこそ繁華街のど真ん中ですが、明治期に埋め立てられるまでここは堀でした。「俊寛堀」と呼ばれていたそうです

さて、その鬼界ヶ島ですが平家物語には次のように描かれています。
「島には人がほとんどいない、わずかにいる人はまともな服も着ず、体毛が濃く、色も黒い。烏帽子も被らず、女性は髪を下ろしてもいない。狩猟生活で、田もないから米もない。桑の木を植えてないから絹の布もない」

どえらいところへ来てしまった3人。もはやサバイバル生活です。それでもなんとかやり過ごしていました。とはいえ、やはり京の都へ戻りたい気持ちは募る一方。こうなれば神頼みしかありません。
成経と康頼はもともと熊野信仰に熱心でした。そこで後白河法皇が清盛に命じて熊野神社を勧請したように、島の中に熊野神社を作り、毎日毎晩参詣して必死に帰京を祈ります。

しかしなぜか俊寛は「熊野?なんじゃそりゃ…ププッ」とどこ吹く風。何の興味も示しません。まあ、僧侶ですから神道にのめり込むわけにはいかないと思ったのかもしれません……と最大限好意的な解釈をしておきましょう。

さらに康頼は1,000本もの卒塔婆を作り、それに名前やら和歌やらを書き記して毎日こつこつと海へ流します。相当な望郷の念、もはや怨念と言っても過言ではなさげ。
その和歌がこちら。

薩摩潟おきの小島に我ありと親にはつげよ八重の潮風 / 思ひやれしばしとおもふ旅だにも猶ふるさとは恋しきものを

それぞれ「海を渡る潮風よ、薩摩潟の沖の小島に私がいると親に伝えてください」「思いやってください。しばらくの旅でもやっぱりふるさとは恋しくなるものです。(ましてや帰られるかどうかも判らない旅だとなおさら恋しいのです)」と切々なる気持ちを詠んでいます。

島を離れる者、残される者

なんと奇跡が起きました。康頼が流した1,000本もの卒塔婆のうちの1本がはるばる海流に乗って瀬戸内海の厳島神社の前にまで流れ着いたのです。
しかも奇跡は重なるもので、たまたま神社の前でその卒塔婆を拾った人物は康頼の知人の僧侶だったのです。
僧は卒塔婆を京へ持ち帰り、康頼の家族に見せます。嘆きながらも康頼の無事を喜ぶ家族の話は後白河法皇、重盛を経て清盛の耳にも入りました。

そのころ高倉天皇に嫁入りした清盛の娘徳子がようやく懐妊します。しかし大喜びの清盛たちとは裏腹に徳子の体調は日増しに悪くなるばかり。
どうしたことかと加持祈祷をさせたところ、なんと讃岐に配流された崇徳上皇の霊、保元の乱で戦死した藤原頼長の怨念、鹿ヶ谷の陰謀の罪で処刑された藤原成親と西光の霊、おまけに鬼界ヶ島に流された3人の生霊とまあ、出るわ出るわ。清盛に恨みがある霊がわんさか

あわてた清盛、讃岐の上皇には追号で崇徳の名を贈り、頼長にも太政大臣正一位を贈官贈位。成親と親戚である重盛は「鬼界ヶ島に配流されている3人にも恩赦を」と清盛に迫りました。

配流から1年経った治承2年(1178年)の秋、都から鬼界ヶ島に使者がやって来ます。使者が持ってきた書状にはこうありました。
「鬼界ヶ島の流人、少将成経、康頼法師赦免」
成経と康頼の罪を許すとあります。しかし、俊寛の名前は紙のどこにも書いていません

清盛は俊寛を許さなかったのです。いろいろ目を掛けてやったのに平氏打倒の陰謀を自らの山荘で謀ったなんて一生許さん!てなもんです。
それでも俊寛としてはたまったものじゃありません。成経の着物にすがりついて「もとはといえばお前の父が企んだ陰謀じゃないか~、見捨てないで! 置いていかないで! せめて九州まで舟に乗せて~
と漕ぎだした舟に捕まり必死に懇願。

俊寛像

しかし結局置いて行かれました……無念。
このくだりは能や歌舞伎、人形浄瑠璃の演目(「平家女護島」(へいけにょごがしま))になるほど有名で、おまけにクライマックス。
島に置いていかれる悲しみを情感たっぷりに演じます。

その後の俊寛

さて、都には俊寛が召し使っていた童がいました。名を有王(ありおう)といいました。成経と康頼は都に戻ってきましたが、師である俊寛が戻ってくる気配はありません。心配になった有王は自ら鬼界ヶ島へ向かいます。

島に着いた有王は、変わり果てた姿の俊寛と再会。俊寛はカゲロウのように痩せ衰え、海藻を身につけ、関節がくっきり表れ、肌はたるみ、着ているモノもひどいありさまでした。

歌川国芳 「盛衰記人品箋 法勝寺執行俊寛」

俊寛いわく、元気なうちは山に登り硫黄を採取して九州から来る商人に売って食料をもらい生計を立てていたのだとか。しかしカラダも衰え、山にも登れなくなったので、今では漁師に跪いて頼み込んで魚を分けてもらったり、貝や岩海苔を食べていた始末です。

住まいは竹と葦、床に松葉を敷き詰めたハンドメイド感たっぷりの庵。今では俊寛堂と呼ばれて復元されています。

俊寛堂

有王は俊寛が逮捕された後に起きたできごとを語ります。それは大変悲惨なものでした。

役人が俊寛の家へやって来て家財を没収、近親者は逮捕されて謀反の計画を追及され、挙句に処刑されたこと。
奥方と子供は難を免れたものの、子の一人は天然痘で死去し、その心痛もあって奥方も亡くなったこと。
唯一残された娘が俊寛の帰りを今か今かと待っていること。

話を聞き終えた俊寛は断食に入ります。
恩赦がこの先出される気配もないのならば、生き長らえて身内に迷惑をかけるよりもいっそ往生の道を選んだのです。
そして有王が島に来て23日目。俊寛は庵にて息を引き取りました。

有王は庵を崩し、火を放って俊寛を荼毘に付します。骨は持ち帰られた有王によって高野山に埋葬されました。

鬼界ヶ島はどこにある?

悲哀の物語になった鬼界ヶ島ですが、どこのどの島なのかは正確には分かっていません。ただ鬼界ヶ島の候補はいくつかあります。

最有力とされるのが鹿児島県三島村の硫黄島(いおうじま)。太平洋戦争で激戦地となった東京都小笠原諸島の硫黄島(いおうとう)とは全くの別物です。薩摩硫黄島とも称し、さらにそのまんま「鬼界ヶ島」とも呼ばれています。


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平家物語の次のような記述が硫黄島の特長と合致しています。
薩摩潟鬼界ヶ島と書かれている
●島の中に高い山がありいつも火が燃え、硫黄が多いため硫黄が島と呼ぶ
●海を越え波を越えはるばる行ったところにあり、舟もほとんど通わない

しかし次の記述が硫黄島の特長に合致しません。
●北の山に百尺の高さのがあり、水が流れ落ちている(硫黄島には河川は長浜川1本しかなく、しかも雨が降った時だけ水が流れる乾川。滝はありません)
また、●蝉の声で夏を知り、が降れば冬だと判断する、と書かれているものの、現代の硫黄島で雪が降ることは考えにくいですね。当時は氷河期だったため、まあ、そういうこともあるかも…しれません。硫黄島の南にある屋久島は現代でも高所なら多量に積雪しますし。

先述の俊寛像と俊寛堂は硫黄島にあります。また島には俊寛が都からの舟の到来がないか石の上に登って展望し、その気配がないことで涙を流したとする「俊寛涙石」も残っています。

次なる候補は同じ鹿児島県の喜界島(きかいじま)です。奄美大島の東にあります。


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やはり鬼界ヶ島と喜界島という似た名前がポイントでしょうか。しかし、この島には火山はおろか高い山がありません。(島内の最高所の標高は214m)。滝は伊実久(いさねく)集落近くに一応あります。

俊寛の墓

しかし喜界島には俊寛の墓があるのです。調査の結果、骨などから島外の身分の高い人物の物だと推測されるのだそう。
え~っと。骨は有王が持ち帰ったのでは……?
ちなみに墓のすぐそばに坐像もあります。

さらに長崎県にも配流地とされる場所があります。その名は長崎市の伊王島(いおうじま)。


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硫黄が島と伊王島、響きは似ています。ただこの島にも高い山はなく(最高標高地はわずか109m)、火山もありません。
しかし昔は温泉があったらしく、温泉があったなら硫黄があってもおかしくない上に、過去には島を硫黄島の名で呼ばれていた歴史もあるという説もあります。

  • 俊寛の墓
  • 俊寛の墓
  • 伊王島の中心から歩いてしばらくのところにあります。すぐそばに北原白秋の「いにしえの流され人もかくありて すえいきどおり海をにらみき」の歌碑も据えられています

とはいえ伊王島から長崎本土は3kmほどしか離れておらず、伊王島の隣の沖ノ島へはわずか30mの海峡があるだけ。沖ノ島から本土へも500mの海峡があるだけなので、絶海の孤島という雰囲気では全くありません。俊寛が本気を出せば泳げる距離です。

実は珍説がありまして。
成経の妻の父である教盛が自領があるこの地へ行き先をそっと変更したとの説。あくまでも薩摩へ配流したふりを装って3人を匿ったのだそうです。
けれども、そうだとしたら康頼が流した卒塔婆の漂流の説明がつかなくなります。長崎から流した卒塔婆が広島へ漂流するのは海流の流れからすると結構厳しいのではないかと。100%ありえないわけではないですけれども。

ほかにも俊寛の墓と言われている場所があり、佐賀県佐賀市嘉瀬町や鹿児島県出水市野田町下名中郡に墓石が残っています。別説によれば鬼界ヶ島からなんとか脱出に成功した俊寛は鹿児島県阿久根市脇本、もしくは隣の出水市荘荒崎に辿りつき、その後出水市野田町で没したのだそうです。

なんともナゾが多い俊寛。その真実は結局闇の中です。


画像引用:鹿児島県鹿児島地域振興局様
(http://www.pref.kagoshima.jp/ak01/chiiki/kagoshima/index.html)
薩摩硫黄島紹介サイト様
(http://island.geocities.jp/satsumaiwojima2002/index.html)
Snap55様
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%8A%E5%AF%9B)



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  • 俊寛堂
  • 住所 鹿児島県鹿児島郡三島村大字硫黄島
  • 電話 099-222-3141(三島村役場)
  • 開門時間 24時間
  • 拝観料 ー
  • 交通 鹿児島本港南埠頭フェリーみしま3時間45分硫黄島港下船 徒歩20分


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