清盛怒る!徹底攻撃開始!

興福寺/奈良県奈良市

さらば福原

富士川の戦いで戦わずして敗戦した平家軍。その状況を見てまたもや反平家の狼煙が上がります。治承4年(1180年)11月、尾張、美濃の源氏が挙兵したのに続き、京の都にほど近い近江(滋賀県)でも山本義経(やまもとよしつね)と柏木義兼(かしわぎよしかね)の兄弟が挙兵しました。ちなみに義経という名前ではありますが、いわゆる牛若丸、頼朝の弟の義経とは別人です。(近江源氏)

近江源氏は北陸から京の都に納められる年貢を横取りし、以仁王を匿った園城寺(おんじょうじ)の僧兵とも結託して、平家への反発をどんどん強めていきました。

さて一方、福原。清盛は安徳天皇に私邸を譲り、そこを皇居としていましたが、遷都から半年経っても京の都に戻すべきだとの声は治まる気配はありません。しまいには清盛の子、宗盛までもが還都を主張。地方で次々と勃発する反乱に対処するには、京に戻るのもやむをえまいとの結論を清盛は出しました。

結局福原京は半年だけの遷都に終わりました。清盛は京に戻り、反平家軍への徹底対抗に執念を燃やします。高倉上皇から謀反人追討の院宣を引き出し、錦の御旗のもと清盛の子、知盛(とももり)の軍勢が近江源氏追討のため近江に入りました。

  • 平知盛
  • 平知盛
  • 清盛の四男。優しい性格だった重盛とは対照的に、武将として力を発揮し、「入道相国最愛の息子」と呼ばれるようになります。
    清盛の死後は平家の中枢として源氏との戦いの指揮をとりますが、元暦2年(1185年)壇ノ浦の戦いで敗れ、海へ身を投げ34歳で自害しました

近江源氏軍との戦闘で平家軍は勝利しましたが、平家軍は園城寺の僧兵たちにも攻撃したため、園城寺の一部が炎上する騒ぎにもなりました。

そして南都焼討

そして源氏とは別に平家に対して反発する勢力がもうひとつ。高倉上皇の行幸からいざこざがあった寺社勢力です。以仁王を匿おうとしていた奈良の興福寺はその先鋒でもありました。

とはいえ、興福寺は完全なる反平家というわけではなく、内部には平家と協和しようとする勢力もあったため、清盛はまずは話し合いだ、と500人の軽武装の兵を興福寺へ送ります。
ところが、興福寺側は話し合いどころか抗戦し、60人の兵を拿捕しては首を斬り、猿沢池のほとりに陳列するという仏教徒とは思えない行動に出たのです。

興福寺と猿沢池

報告を聞いた清盛は怒り心頭。興福寺は藤原氏の氏寺のため、公卿は興福寺をかばっていましたが、さすがにこの暴挙には公卿も口をあんぐり。清盛の興福寺追討を認めざるを得なくなります。

清盛は12月25日のクリスマスに(クリスマスは関係ないですね…)、息子の重衡(しげひら)を総大将にして4万もの大軍を奈良へ派遣します。

  • 平重衡
  • 平重衡
  • 清盛の五男。清盛の命を受けて南都へ侵攻します。興福寺側も7千人の兵で堀を築いて守りに徹しますが、敵わず敗退します。この事件により重衡は南都側に大いに恨まれ、のちの寿永3年(1184年)一ノ谷の戦いで捕えられた重衡は、南都衆徒に引き渡され処刑されてしまいます

結果的に、平家軍は興福寺はおろか、東大寺までも焼きつくしてしまうのです。逃げ遅れて焼死した数は数千にも及び、東大寺は大仏までも消失してしまいます。

さすがにちょっとやりすぎでは…?という声も上がりますが、清盛は手を緩めず、興福寺や東大寺の再建を禁じ、荘園や所領も没収するという強硬策に出ます。逆らうやつは皆処罰、そんなノリになってきました。




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  • 興福寺
  • 住所 奈良県奈良県奈良市登大路町48
  • 電話 0742-22-7755
  • 開門時間 24時間(国宝館、東金堂は9時~16時45分)
  • 拝観料 国宝館 大人600円(300円)、中高生500円(200円)、小学生200円(100円)、(カッコ内は東金堂の拝観料)
  • 交通 近鉄奈良線奈良駅2番出口 徒歩5分


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