源平合戦編 平家の逆襲

義円公園/岐阜県大垣市

源行家と義円の結託

清盛の死去は平家の中枢を喪失することと同義でした。それでもやはり、清盛の死が彼らに何かの衝動を駆りたてたのかもしれません。
打倒源氏の炎が燃え上がる治承5年(1181年)4月、平家は南都を焼き討ちした重衡(しげひら)を中心とした3万もの大軍勢を東へ派遣します。

迎え撃つ源氏軍、源行家(みなもとのゆきいえ)の軍勢です。行家は以仁王の令旨を全国へ伝え歩いた人物。6,000騎で平家軍を迎え撃ちます。

  • 源行家
  • 源行家
  • 平治の乱で源義朝(頼朝・義経の父)とともに戦うものの敗れ、熊野に身を隠遁。のちに以仁王と結託した源頼政に「以仁王の令旨」の伝達を命じられます。ただ、誰かの下に就くことを嫌う性格だったため独歩路線に走りがち。実を結ばない暴走が目立つ武将でした

そして行家の軍には、義経の兄である義円(ぎえん)も加わっていました。義円は常磐御前の子で、幼名を乙若丸と言いました。平治の乱のときにはまだ6歳だった義円も、いまや27歳の血気盛んな年齢です。
叔父にあたる行家が尾張で挙兵したのを受けて別部隊2,000騎で参戦したのです。

墨俣川の戦い

東へ向かった平家軍と尾張を発った源氏・行家軍、両軍は岐阜県大垣市を流れていた墨俣川(すのまたがわ)の両岸でにらみ合います。
墨俣川は長良川の異称。現在では長良川は揖斐川、木曽川と交わることなくそのまま河口まで流れていますが、その当時は大垣市墨俣あたりで3川が合流し、大河川になっていました。美濃と尾張の国境でもあった場所です。

義円の部隊は行家の部隊とは別行動を取っていました。義円は「行家に先陣されては兄の頼朝に合わせる顔がなくなってしまう」と、勢いあまって奇襲攻撃を仕掛けます。
ざぶざぶと川を渡り、敵に気づかれずに対岸に渡れた…と思った矢先、下半身が濡れているのを平家軍に見つかり、敵軍だとあっさりバレてしまいました。挙句に、あっさり討たれてしまいます。

これはまずい、と待機していた行家軍も川をざぶざぶ渡り交戦しますが、勝ち目なし。行家軍は愛知県の矢作川(矢矧・やはぎ)まで後退を余儀なくされてしまいました。
清盛の弔い合戦だった墨俣川の戦いは、みごと平家軍の勝利で終わったのです。

源平墨俣川古戦場碑

墨俣の長良川河畔近くに義円公園があります。公園内のお堂には義円地蔵が奉られ、源平墨俣川古戦場碑、源義円供養塔も鎮座。27年と短かった義円の生涯を偲ぶ場となっています。毎年命日の3月11日には地元の人たちにより供養が行われます。

公園から西へ150mほど行けば、義円の墓です。

義円の墓

画像引用:大垣市様(http://www.city.ogaki.lg.jp)
四季彩綴り様(http://kiratemari.blog134.fc2.com/)



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  • 義円公園
  • 住所 岐阜県大垣市墨俣町下宿
  • 電話 0584-62-3111(大垣市役所墨俣地域事務所)
  • 開門時間 24時間
  • 拝観料 無料
  • 交通 JR東海道本線大垣駅南口から名阪近鉄バス岐阜聖徳学園大学行き25分 墨俣下車 徒歩20分


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